中国の列車と中国人



中国旅行記

~最後まで戦えと神様は言っている~

ウルムチの麦田青年旅行者はほとんどの客が中国人であった。宿の中では当然中国語が飛び交い、日本語はおろか英語も一切通じなかった。

そして、中国に入ってから夜眠れなくなることが多くなった。それは自分自身の問題ではなく、明らかに周りの中国人のすさまじいいびきのせいだった。

一人がいびきをかきだすともう一人もいびきをかきだす。さらにもう一人、さらにもう一人とどんどんといびきはうるさくなり、完全にいびきのカルテットが演奏されていた。僕はこの不愉快なカルテットを聞きながらまったく眠れない日々を過ごした。

出発の日、僕はデポジットを返してもらおうと鍵を渡した。100元渡していたデポジットは45元しか返ってこなかった。なぜかと問いただすと、唯一英語をカタコトだけ話せた男が「お前は3泊分しか払っていない。だから一泊分55元をマイナスして45元だ。」と言った。

・・「馬鹿かこいつ。」

僕は確実に4泊分の料金を支払った。「それならレシートを見せろ!」と怒鳴り調子で言ってきた彼に対し、「レシートはもらっていない」と抗議をした。それは段々と怒鳴りあいになっていった。今までの人生で怒鳴り合いをした国はインドとキューバしかない。日本で普通に生活していて怒鳴りあいなどすることはまずない。むしろ、普通に旅行をしていても怒鳴りあいなどすることなどあるはずがない。

この男は「早く45間をもらってどこかに消えろ!」というようなことを言った。僕も怒鳴り「そんなわけねーだろ!よく調べろ!ふざけんな!金返せ!」と英語と日本語を交えて言った。

結局調べると向こうが間違っていることがわかった。男は軽い調子で「ごめん、間違えていた」といって100元返してすぐに終わった。僕はそれ以上怒らなかった。それは、中国とはこういう国であるということを今までの人生で色々な人から聞いていたからだった。

西安に向かうため、駅に向かい列車に乗ろうとした。中国人は一切英語が話せない。この5日間で英語を話した人間は3人しかいない。一人目は助けてくれた警察、二人目は一緒にいびきに苦しめられていた同じ部屋の中国人、そして三人目はこの宿の男である。

僕はどこに自分の乗る列車があるのかが分からず、とにかく切符を見せて「西安、西安!!!」と叫ぶように人に聞いた。この国ではおとなしくしていると何もできない。中国と言う一切英語の表記がなく、英語が通じない国においては自分から自分のやりたいことをアピールして助けてもらう以外に方法が無い。

駅は人ごみでいっぱいだった。人ごみと言う表現すら生ぬるいかもしれない。人人人人・・・人しかいない。人が多すぎて気持ち悪くなるレベルだった。

そんな中、何とか列車に乗り込むことができた。硬座。硬くて座ると書くこの席は本当に日本の田舎の鈍行列車にあるような三人がけの椅子に三人で乗る。前にも同じように三人が座っていた。ぎゅうぎゅう詰めなんてものじゃない。もはやここまでくるとおかしいとしか言いようが無かった。

ネットで見た感じでは夜7時にウルムチを出発して西安に到着するのは夜中の12時ごろらしかった。この列車で29時間・・・・死ぬんじゃないだろうか?

だが、僕はこれまでも何十時間と言うバスに乗ってきた。そんなに問題ない・・・はずだった。

中国の列車はすさまじかった。子供はわめきちらし、大人も大人で自由気ままに好き勝手に動いている。じっとしているという概念が無い。上半身裸でうろついている人、席の下で横になる人、連結部分に新聞紙を引いて寝る人、皆ゴミを床に捨てる。30分おきくらいに駅員が掃除しにやってくる。そしてまたゴミを捨てる。連結部分にタンを吐く。

トイレも汚い。むしろ汚いという言葉では片付けられないくらいすさまじいものだった。トイレに行くまでにこの人ごみの中を歩き、そして用を足す。当然のようにトイレットペーパーは無い。そして前の人が「大」を流してなかったりする。

皆カップラーメンを食べる。連結部分にお湯が出る場所があり、食事時になるとお湯を入れて一斉にカップラーメンを食べる。僕も負けずにカップラーメンを食べた。売り子のおじさんがカップラーメンを売りにくるのはいいが、おもちゃやその他得体の知れないものを売りにくるのは意味不明だった。

・・・「カオス」

中国人はマナーが悪いということはなんとなく知っていた。だが、それを目の当たりにして思ったのは「中国人はマナーが悪いのではなく、マナーという概念が無いのだ」ということだった。

カオスのなかでは自分もカオスになるしかなかった。僕にはもはや譲り合いやマナーという概念はなく、自分勝手に動いた。席はカオス状態で眠れるはずもなく、一人連結部分にスペースを見つけて横になって眠った。

だが、僕はこんなカオスの中で自分の中の旅人としての感覚を目覚めさせ、パワーが出てきた。日本を思っている場合ではない。最後まで戦え、と神様は確実に言っていた。

眠ったり、いろんなことを考えているうちに24時間はすぐに過ぎた。「あと6時間か、もうすぐだな」と思ってしまった自分の頭のおかしさを僕はどこか客観的に見ていた。

最後の6時間、このカオスが僕は確実に楽しくなり、そして確実に苛立っていた。「何なんだこの国は!?少しじっとしれられんのかこいつら!」とむかつく感情を持っていながらも中国という国が少しだけ分かった気がした。僕はそんなに中国が嫌いではなかった。

この列車は西安が終点ではなかった。そしてアナウンスなどあるはずも無い。西安で降りなければ飛行機に間に合わない状態になるため、僕は是が非でも西安で降りる必要があった。

周りの人に「西安西安」と連呼してアピールをした。周りの人は、当然のように中国語でまくしたてるように何かを言っているがまったく分からなかった。僕は逆に日本語で「西安ってまだだよね!?」とまくし立てるように言った。当然コミュニケーションはとれていなかったが、なんとなくまだ着いていないというのは分かった。ここでとにかく西安で降りたいアピールをしておけば、着いたときに教えてくれるだろうという算段もあった。

一向に西安に着かない。夜中の12時着となっていたはずが12時30分になっても着かない。段々と不安になっていたが、周りの中国人は「まだだ」というようなことを言った。一切何を言っているかは分からないが、おそらくそういっているような気がした。

列車は夜中の1時に西安に到着した。

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西安の駅前もカオス状態だった。人が駅前の広場のようなところ寝ている。大きなかばんやスーツケースを枕にしているところを見ると、ホームレスではなく普通に列車を待っている人なのだろうということはすぐに分かった。

これだけ人がいれば野宿も安全にできるだろうと考えたが、僕はつかれきっていたためか、1時間ほどかけて宿を探した。最後の日くらいはゆっくり休みたいと思い、シングルを取った。

それから僕は西安のネオンに吸い込まれるように、変な客引きについていき、そのまま眠った。

・・次の日、所謂この長期旅行の最後の日、僕は西安を歩いた。中国のご飯は安くて美味しく、僕は必要以上に食べて、そして暑かったため必要以上に水やジュースを飲んだ。

西安は古くは唐の都長安であり、中国の古都であった。どこか雰囲気は京都に似ていた。ガイドブックもネット情報も何もなくただただ歩いた。歩くとおそらく観光地だと思われるお寺のような場所に着き、歴史博物館のようなところを見学した。

この1年10ヶ月の間、仏教国はここがはじめてだった。僕はアジアに来たといってもずっとキリストの国とイスラムの国を通っていたためか、仏教のお寺や仏像を見ると逆にエキゾチックさを感じ、日本を思い出した。中国はこういう建物類や人の顔、そしてコンビにで売っているジュース類まで、どこか日本に似ていた。

列車の中では日本とは似ても似つかない中国だと思っていたが、やはりどこか日本に似ている空気はあった。日本と言う国は中国に近いだけあって雰囲気は似ている。でも、何かが絶対的に、絶対的に違う。不思議な国日本のことを考えた。

夜、僕はまたネオンに吸い込まれそうになったが、なぜか何時間も歩いて気がついたら結局中国人と怒鳴りあいになり、そして最後に宿で空港の場所を聞いたが英語が一切通じず、困り果てながら中国語と日本語の意味不明なコミュニケーションを取っていた。僕は完全に中国と言う国に疲れ果てていた。

なんだか嬉しかった。中国と中国人には本当に疲れ果てたけど、それでよかった。旅の最後などこんなものでいい。変にドラマチックな、感動的な最後など必要無い。

「旅の最後の日は11時間歩きっぱなしでビーチサンダルの裏に穴が開いて歩いていると足の裏が痛くなってきて、そして中国人と怒鳴りあいをしました」

これでいいじゃないか。

※次、最終回です。

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