バックパッカーの世界一周旅行記・完




~終わりは始まり~

2013年8月。僕は中国の空港にいた。

フライトまで時間があったので市街を歩き回ろうかと思ったが、中国でもし空港行きのバスが見つからないということを考えると、早めに出発せざるを得なかった。そんな不安に対して西安市街から空港へのアクセスは驚くほどスムーズにいった。

空港について特にやることもなく、チェックインの時間が来るまでパソコンを開いていた。

この旅は今日で終わる。あまり実感は無かった。明日には日本にいると思うとなんだか不思議な感じがした。

数日前から日本にいる友達や家族とメールやスカイプでやり取りをしているけれど、約2年も経ったなんて思えないほど、何も変わっていないように見えた。でも、僕はおそらく日本の感覚をなくしているだろう。日本がどんな国だったかもあまり覚えていない。もちろん知識や記憶はあるけれど、実感として日本の空気を思い出せない。

チェックインの時間が来た。パソコンのデータでEチケットを見せて紙のチケットをもらった。8月11日20時、西安~広州。8月12日9時半、広州~成田。ついに日本に帰る。

この旅のことを走馬灯のように思い出す。旅の最後にこれは絶対にやるだろうと思っていた。

この旅はメキシコから始まり中国まで東回りでやってきた。くだらないことだと思ってしまうけれど、それは「世界一周」ということになる。そもそも僕は前回のボランティア旅行のとき、お金の関係で中国に行けず、いつかは中国に行ってみたいというのが、この世界一周の大本の大本だったことを思い出した。

最後に僕はずっと思っていた「夢」を叶えた。「夢」なんてくだらないことかもしれないけれど、それでもやっぱりかなえれば嬉しいものだった。

僕はもう一つ「夢」を持っていた。今から10年以上も前、大学の受験勉強をしていたとき、僕は一冊の本を読んだ。「もし世界が100人の村だったら」というようなタイトルの本だった。

僕はこの本を読んで「外国」と言うものに興味を持った。世界地図を見ると、自分が住んでいる「日本」という国は小さな島国でしかないということを思った。

いつか、「外国」に行って「外国人」と「外国語」を話したい。それは常に持っていた。自分のそんなにやる気のない性格からか、そこまで一生懸命英語を勉強したわけではなかったが、英語というのは常に意識の中にあった。

僕はその意味で本当の「夢」を叶えた。世界一周というものが小さく見えるくらいに僕は嫌と言うほど「外国」に行って「外国人」と「外国語」を話してきた。それは確実に今までの「旅行」とは違っていた。インドのボランティアとも違っていた。あの時、僕は確かに「外国」にいた。だが、僕は主に「日本人」と「日本語」を話していた。

外国人と外国語を話す旅は決して楽しいことだけではなかった。だが、もっとシンプルに考えてもいいのではないかと、最後になって思った。旅は嬉しいこと、辛いこと、悲しいこと、すべてが楽しかったと言っていいのではないだろうか。こねくりまわして色々なことを考えていたけれど、シンプルに「楽しかった」というだけでいいではないかと思えた。

僕はフェイスブックの書き込みの下書きを書いた。中国ではフェイスブックが使えず(実際はツールを使って使えるようになったがサーバーが重く、)成田に着いたらすぐに書き込もうと思っていた。

そんなことをしているうちに広州へのフライト時間になった。2時間半のときは一瞬だった。

22時に広州着。朝9時半発。広州ではここで一泊しなければならない。僕は最後の最後までストイックに空港泊をした。辛くもなんとも無かった。これまで何回もやってきたこと、そしてもう二度とやらないこと、だからだった。こんなことをするのもこれが最後になる。

寿司や焼肉を思った。お腹がなる。そういえばちゃんとした夕食を食べていなかった。日本に帰ったら何を食べよう?そう考えると楽しみで楽しみでしょうがなかった。

僕は、長期貧乏旅行はもう絶対にしないだろう。お金に余裕があって、短期・もしくは中期の旅行はしたいと思う。旅行が好きな自分にとってそのくらいの人生の楽しみは持っていたい。

この旅で一番辛かったのは強盗にあったことでも野宿したことでもない。常にお金に余裕がなく、人の「愛情」という非常に不安定で目に見えないものに頼り続け、そして常に将来に不安を抱えていたことだった。

でも、どんなに不安を抱えていようとも僕は途中で帰ることをしなかった。それは、やはり誰がなんと言おうと、最初に決めた「世界一周」をやり遂げたかったからだった。そして、僕は、単純に旅を楽しんでいた。単純に楽しいこと、感動することはもちろん、辛いこと、つまらないことも含めて、結局は旅を楽しんでいた。旅をやめたくなかった。

今後、まずは経済の建て直し。ここまで働かないで旅を続けてきた分、貯金がない。まずは働いてそれから今後のことを決めようと思った。海外で働くという希望も捨ててはいない。僕はこの旅で幾人もの日本が好きな外国人と出会い、日本人でよかったと思うようになっていたし、そこで得たことを活かした人生にしたいと考えていた。

未来は常にわからない。でも、何がどうであっても強く明るくいたい。未来に対しては常に希望を抱いていたい。

僕は一つだけ心に決めていた。この旅でやってきたことと同じように、これからも、日本人として海外の人に日本と言う国を伝えていきたいということだけは、どんな未来になろうとも決して消えることはない。

また、外国人に日本を伝えるという思いと同じように僕は次の世代にも伝えたいと思っていた。この旅の中で自分のやってきたことを通じて、海外の人と交わることの楽しさと、こんなこと簡単にできるんだ、ということを伝えたかった。今後も同じように、僕はそれを次の世代に伝えていきたい。

僕はこの旅で若さをなくしたように思えた。実際30手前と言う年齢を「若い」とは言わないだろう。だが、それはそんなに悪いことではなかった。日本には4つの季節がある。青春・朱夏・白秋・玄冬。それを繰り返して時は過ぎていく。僕は若さと言う青春を終えてもその他の季節を楽しめると言うことは確信していた。

・・・当然のようにあまりよく眠れず朝を迎えた。眠気を抑えながら搭乗ゲートに向かうと「TOKYO」と書かれていた。僕は長い長い旅を終えて日本に帰るのだ。

飛行機の中はエアコンが効き過ぎて寒かった。毛布を借りて眠ったり日記を書いたりしていた。

この旅は終わる。だが「終わる」ということは「始まる」ということ。すべては巡り巡る。何かが終われば何かが始まる。インドボランティアという名の旅が終われば、世界一周長期旅行と言う名の旅が始まる。世界一周長期旅行と言う名の旅が終われば、仕事と言う名の旅が始まる。

その意味では「旅」は永遠に続くのかもしれない。



時間が過ぎるのは早かった。僕は「日本」という国にたどり着いた。

日本と言う国から長期間離れている僕は、日本と言う国にどこか恐れを抱き、どこか戸惑いを感じていた。日本という国に馴染めるのだろうか。という疑問は頭の中から離れなかった。

タラップを降りる直前、自分で自分に「そんなにびびるなよ。お前の国だろ。」と言った。その一言で僕は冷静になれた。

タラップを降りた。どこにでも当たり前のように「日本語」が書かれていてどこかしらから「日本語」が聞こえてくる。ここは日本だ。

イミグレで僕は「帰国」というスタンプを押された。僕が唯一「入国」のスタンプではなく「帰国」のスタンプを押される国。僕は「国に入った」のではなく「国に帰った」のだ。

イミグレを過ぎて京成線に乗ろうとしたとき一つの看板が見えた。英語で大きく「Welcome」と書かれている。そしてその隣には直訳の日本語「ようこそ」ではなく、「おかえりなさい」と書かれていた。

それを見たとき僕は涙ぐんだ。



バックパッカーの世界一周旅行記 Que sera sera 完
※いままでありがとうございました。

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