フェティエ旅行記



中東旅行記

~昭和か?~

フェティエという今まで聞いたこともなかった地中海に面したトルコのリゾート地にもライブモカで知り合った友達がいた。

ブルジュとはいつのまにか知り合いスカイプで何回もチャットをしていた。僕は彼女とチャットをしながらフェティエにもいってみようと思った。

バスは以外にも早く着いた。彼女と待ち合わせをしたのは6時半だったが、5時半にはすでにフェティエのオトガルにつき、僕はチャイを飲みながら彼女が来るのを待った。

1時間ちょっと待つとブルジュはやってきた。元気そうな、そしてどう見ても高校生か大学生にしか見えない彼女はすでに24歳だった。とても24歳には見えなかった。

彼女のお母さんも一緒に来て、僕らは彼女の家に向かった。フェティエはイスタンブールやイズミルのような華やかさはないけれどとても落ち着いていて綺麗な街だった。

話せば話すほど彼女の純粋さは伝わってきた。24歳と言う世間で言えば大人の部類に入るはずなのだが、あどけない笑顔とつたない英語のせいか、彼女は本当に若く見えた。

街へ出かけた。彼女はつたない英語でフェティエを案内してくれた。僕と彼女は欧米のバーのような場所のテラスで水タバコを頼んだ。彼女は酒もタバコもやらないが、水タバコだけは時々やるといって笑った。

水タバコを吸うと、中東の懐かしさがよみがえってきた。水タバコ、、、紙巻タバコとは違った、リンゴやミントの味のする中東ならではのアラビアンな雰囲気のする器具を使ったタバコは僕に中東を思い出させた。そしてなぜかよくわからないままノスタルジーに浸った。

僕らは水タバコを吸いながら他愛もない話をした。彼女はいつも笑っていた。世の中にこんな24歳がいるのか?こんなに純粋で外の世界を知らずに、インターネットだけで外国人とコミュニケーションをとる彼女は僕にとって新鮮だった。

僕は日本語を教える約束をしていたが、彼女は日本語というよりはむしろ日本のことを知りたがっていた。彼女は日本のドラマやアニメが大好きだった。こんな遠く離れたトルコという中東の国でも日本のコンテンツは驚くほど有名になっていた。

日本語を教えるというのは難しい。多くの外国人は日本語というよりは、日本そのものに興味があって、どちらかといえば文法のような小難しいことよりも日本という国の、「ドラマでみた~~ってどうなの?」とか「日本の大学ってどういうシステムなの?」というようなことに興味がある。少なくとも今まで出会ってきた人たちはほとんどがそうだった。

日本語教師というのは日本語文法を教えることはもちろん、日本について知らなければならない。そのことを実感した。それも、歴史や社会だけではなく、どういう風に人々が生きているのかというもっと現実的なことを知る必要があった。それは、いまこれだけの期間日本にいない自分にとってある意味では相当に難しいものだった。実際、僕は彼女よりも日本のドラマやアニメを知らなかった。

彼女は本当に純粋で、そして今までのトルコ人と同じように良くしてくれた。いつも笑っていて、世の中のことをよく知らなくて、日本語はもちろん英語もあまりできなくて、でも一生懸命に外国人と話をしようとしてくれて、そして外国人との話を楽しんでいる。

僕は本気で彼女との会話を楽しんだ。

途中までは楽しかった。「もっとここに滞在したい」とすら思っていた。

・・・・お母さんはあまり絡んでこなかったがそれは、単純に英語ができないからだと思っていた。

・・2日後、彼女は突然「ごめんなさい!急に親戚が来ることになったから明日出てほしい」と言った。出る日を約束したにもかかわらず急に予定が変わることが僕は一瞬嫌になったがどうしようもないのであきらめた。彼女と一緒にオトガルにいき、ギョレメ行きのチケットを買った。

後々話を聞いてみると、彼女のお母さんはどこの馬の骨ともわからない外国人と自分の娘をあまり接触させたくない様子だった。

「早くこの家をでてアンカラに行きたい。お母さんは私が外国人と話すのをとても嫌っている。たとえ女性でも外国人と話すことをあまり許してくれない。だからお母さんで内緒で外国人とスカイプしているの。そしてトルコ人だとしても男と話すのをお母さんは許してくれないわ。でも、これは伝統的なトルコのお母さんなのよ」とブルジュはつたない英語で言った。

・・・昭和か?

21世紀も13年が過ぎた今、24歳になる娘をここまで過保護にしている母親がいるとは。男との接触を禁じるのはまだわかるが、外国人との接触を禁じるというのは、、

僕は自分の予定を変えざるを得なかった苛立ちよりもむしろ、こんな家がこの21世紀に存在しているということへの興味すら沸いた。

お母さんは何かと邪魔をしてきた。当然彼女はお母さんの言うことを聞かねばならず、彼女はお母さんのそばにずっといて、僕は部屋で一人でいなければならなくなった。それでも何かとお母さんの目を盗んで二人きりで話したりした。

彼女と一緒にいて楽しかった分、次の日に出なければいけないというショックは大きかった。なんとかできないものかといろいろと考えたが、どうすることもできなかった。

僕は最後の日の夜に「また会いたい」と言った。そして「アンカラで一人暮らししたらまたあえる?」と聞くと「うん!もちろん!」と言った。

そしてお母さんが邪魔をする度に嫌な顔をして、そしてお母さんと言い合いをしていた。

普通だったら「トルコはいまだに保守的でこういう家庭があるんだな。」で終わるけれど、こんなに楽しかったのに突然のこの状態は正直悲しく辛かった。

出発の日、お母さんは僕と娘を近づけることを完璧に禁じ、僕を即バスターミナルへ追いやろうとした。彼女は一応見送りにきてくれたが、なんとも悲しい顔をしていた。そして「すぐに帰らないと。お母さんが・・・」と言った。

僕は最後に、とても大切なことを言った。そして彼女は「ちょっと考えさせてほしい。そのことはスカイプで話し合おう」と言った。

まさかこんなことを言うとは、自分でも驚いた。だが、言いたいことを言っただけですっきりした。

おそらく今後彼女と会うことはないだろう。お母さんの壁が、そしてどうやって会うのか、、、、あまりにも壁が多すぎる。それに、今後どうするのか。

僕はいろいろな思いが交錯し多少悲しくなったがバスに乗り数時間経過するとその感情は消えた。やっぱり僕は人として普通の感情をなくしているのかもしれない。

カッパドキアへ行こう。

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