フランス旅行記・ニース治験を待つ





~優雅な避暑地~

あるんさふぉーどーりあぱーとりーあ
ぐじぇーどとらいべーたーりべー
こんとぬーどーらーてぃーらにーあ
りとだーそんぐろーえれべー
りとだーそんぐろーえれべー
おとんでぃーぶどーぬこぱーにゃ
しぇーせふぇらさーせさるだーん
いーごじぇーすふぇすどーのぶがー
いーごじぇーのふぃせのこぱーにゃ
おざーしとわいやんー
ふぉるめーばたよー
まるしょーまるしょー
けーせーあーふゅー
あーぶがーのしおん

・・・ニースに到着したとき、僕はフランス国歌、ラ・マルセイエーズをつぶやいていた。

ついにフランスに入った。イタリアと同じように、僕はフランスに入ることを夢見ていた。イタリアは一度行ったことがある分、フランスの方が思いは強いかもしれない。

僕はヴェルサイユの薔薇を読み、フランス革命に興味を持った。またヨーロッパ史においてはフランスを中心に展開されてきたといっていいほどフランスは歴史的にも重要な場所だった。僕は大学生のころから、7,8年ほどヨーロッパ史の本を読んだり、ネットで調べたりしてきた。いつの間にかラ・マルセイエーズはカタカナ読みで歌えるほどになっていた。

--

列車が到着したときにはすでに夜だった。僕はアクセルの家に向かった。僕は奇跡的にニースでもカウチサーフィンのホストを見つけていた。アクセルからもらったメールの通りトラムに乗り、最寄り駅で降りた。

ここからアクセルに電話をして家までの道を教えてもらおうかと思ったが、ここには、公衆電話がなかった。僕は公衆電話を探すために夜道を歩き回った。だが、探しても探しても一向にどこにも公衆電話はなかった。

道端のフランス人に声をかけ、ノートにメモしたアクセルの電話番号を見せて「テレフォンシルブプレ」と言った。僕はフランス語は一切知らなかったが、何故かボンジュールとメルシーとシルブプレだけは知っていた。

道端のフランス人はアクセルに電話をしてくれ英語で「彼はここにお前を迎えに来るからしばらく待ってろ」と言い、去っていった。僕はメルシーと言い、アクセルがくるのを待った。

15分ほどで坊主の黒人がやってきた。彼がアクセル、、、、僕はいつものように笑顔で挨拶し英語でコミュニケーションをとった。話を聞くと彼はアフリカのベナンからの移民の子孫のようだった。僕らは彼の家に行き、彼は家のルールを説明してくれた。彼の家は十分すぎるほどの設備でキッチン・洗濯機・広いベッド、すべて自由に使っていいと言ってくれた。僕はメルシーと何回も言った。どうやら彼はカウチサーフィンを何回もやっているらしく、部屋にはすでにカウチサーファーのためのルールが一枚の紙になって置いてあった。



ここからの道のりはすべて治験による。

僕はロンドンの治験に応募した。1年で帰国すると決めてきたが旅が1年を超え、これ以上旅を続けられるほどの資金の余裕がなくなってきた。そこでバックパッカーの中でいつも噂になっている治験の応募をした。イギリスとドイツで治験をやっているが、ドイツは1月まで募集をしていないようだった。

僕はイスラエルにいたとき、ネットで治験をやっている病院に登録をして、11月の募集要項に応募した。その後「コレステロールを図ってください」というメールが来て、イタリアの病院で血液検査を受けてその結果を写真にとりメールで病院に送った。基本的に無理だと思っていたが、意外にもロンドンの病院からは「結果が基準を超えていますので事前検診を受けていただくことが出来ます。11月○日に以下の住所のロンドンの病院に来てください。」という返事をもらった。

この治験を受けることが出来れば僕は何十万円という大金をもらうことができる。もし受けることが出来ない場合でも、ロンドンへの渡航費と事前検診の期間のロンドン滞在費は補助してもらえる。つまり、タダでロンドンに行くことができ、ロンドンでの宿代も1日10ポンドまでもらえる。こんないい話は他になかった。

正直、事前検診後に治験ができるかはまだわからなかった。あまり治験に期待しないようにしようとも思っていた。だが、予算の問題も、日程の問題も含めて、この治験に参加するかしないかですべての旅のルーティングは変わって来る。そう考えると治験までの期間は動くことが出来なかった。

10日後にニースからジュネーブ経由でロンドンに渡るチケットを買った。ロンドンは入国審査が異常に厳しいため、ロンドンから出国する捨てチケットも買った。あとはニースというフランスのリゾート地で10日間待つしかなかった。僕はニースというフランスのリゾート地でゆっくりしようと考えた。



僕は数日間ニースで生活をした。雨の日は何も出来ずPCを触りながらグダグダと過ごし、晴れている日は外をのんびりと散歩した。

アクセルは今までのホストと違い僕をそんなに気にかけなかった。彼は仕事が忙しく顔を合わせることも少なく、またあまり話をしようとはしなかった。僕は彼の分かりにくいホスピタリティーによって宿のように家を使わせてもらうことが出来た。

僕は家の近くのスーパーでパスタと肉と野菜を買い、自炊をしはじめた。彼の家にでは醤油を使うことができたので、肉と野菜を炒めてパスタを茹でて和風パスタをつくり、昼・夜とパスタだけを食べる日が続いた。お金がなく、また自分の料理の技量がなくこれしか作ることができなかったが、お腹いっぱいに食べることができるだけでも幸せだった。

ニースの景色はイタリアの街とは違っていた。イタリア国境に近い場所なだけにイタリアと似ているかと思ったが、明らかに違っていた。イタリアはどこか力強いがフランスはどこか繊細で優美な建築が多く、教会の中の美術もイタリアが力強い絵画や彫刻が多いのに対し、フランスはステンドグラスやマリア像などが多かった。

旧市街からビーチにでる。砂のビーチではなく砂利のビーチ。10月も後半になり泳ぐことはできなかったが、この地中海のビーチは今までの人生で見てきた中でカンクンのカリブ海と同じくらい透明で綺麗だった。ここでフランス人は優雅に本を読んだり、昼寝をしたりしてバカンスを楽しんでいるようだった。僕は完全に場違いだと思いながらもこの優雅な避暑地を楽しんでいた

ニース

ニース

ニース

静かに走るトラム、優雅に歩いている貴族のような白人、アフリカからの移民だと思われる黒人、天気がいい日はこの上ない青空で、昼間から生牡蠣をつまみにテラスでワインを飲んでいる貴族のような人々、この光景は僕が想像したフランスそのものだった。

僕はフランスに来た。ヨーロッパの中心であるフランスにいる。そう考えるとまたラマルセイエーズが頭に流れてきた。歩いているときはずっとこの曲が頭から離れなかった。

TOP      NEXT


inserted by FC2 system