ニース・モナコ旅行記





~期待と意外性~

ニースでは雨の日と晴れの日が繰り返し続いた。ニースにいてから数日後、それまで夏の終わりのようにぽかぽかとしていた日は晴れにもかかわらず突然冬のように寒くなった。

僕は晴れの日は散歩に出かけ、ビーチでヨガをやって座りながら瞑想をしていた。バカンスを楽しんでいるフランス人からみたら東洋の怪しい人がなんかよくわからないことをやってるなというような感じだっただろうが、気にせずに肩や足の筋肉を伸ばした。

雨の日はやることがなかった。暇で暇でどうしようもなくなった僕は1日中パソコンを触っていた。だが、僕はやることがないといいながらパソコン上では死ぬほどと言っていいほどやることがあった。この旅の中で、のんびりと、でも確実に、僕はスペイン語を勉強していた。テストがないからどこまでできているか全然分からないけれど、自分なりにコツコツと、時には休みながら、時には全くやらない日々が続きながら、微妙に微妙に勉強していた。むしろスペイン語の前は英語だった。英語ももう10年来、時には休みながら、時には全くやらない日々が続きながら、微妙に微妙に勉強していた。

世界史も同じだった。特にヨーロッパ史はここ10年くらい暇なときには時々、ダラダラと勉強していた。だが、勉強した割には全然覚えてはいなかった。勉強しては忘れ勉強しては忘れということをこの10年くらい繰り返していた。

語学も歴史も何か特別に出来ることがあるわけもなくただ微妙に話が出来て微妙に書いてあることが読めるくらいではあるが、ただの趣味として続けていた。趣味といえるほど熱心にも取り組んですらいない。いつもやる気を出しては面倒になりやめて、やる気を出しては面倒になりやめてを繰り返してきた。それが僕にとっての歴史と英語とスペイン語の勉強だったが、ここに来て、また微妙にやる気を出し始めた。それは単純に雨が降って外に出れず「暇」だったからだった。

自分の性格上、やる気を出していろんな学習サイトを開けば開くほどあとでやる気がなくなるのを知っていた。なので英語とスペイン語で一つづつサイトを使って、スクリプトのある文章を聞いて、読んで、わからない単語を辞書で調べて、ノートに書き留めるということだけをやった。プラスしてスペイン語と文法が似ているからという理由だけで何故かポルトガル語とイタリア語の文法や単語もちょっとかじりはじめた。だが、また手を広げすぎて深くならなくてつまらなくなって飽きてしまうという自分の性格に途中で気づいたため、ポルトガル語だけ気分転換にちょろちょろ勉強しようと思った。

成果というものがあらわれない分やる気はそがれる、だが、はじめから成果がない趣味とすればやる気があるもないもなく、ただ暇だからやるだけになる。それだけで変に意気込まなくてリラックスできるのはよかった。



本来はここまで暇になるはずではなかった。サンレモにすんでいるファニーとは僕がここに到着する前は毎日のように遊ぼうと約束していたにもかかわらず、土日以外は結局仕事で、その土日は突然、他の友達との約束を思い出したと言って僕と会えなくなった。他の友達と会うからあなたとは会えないというのはきわめてヨーロッパ的な、むしろ日本的な感覚だった。中南米では、むしろイスタンブールでもナポリでも他の友達と会うから一緒に行こうという感覚だった。

僕はこの日本的な感覚が嫌になり、彼女にフェイスブックで不満をぶちまけたが不満を言ったところで何も始まらないので、僕はもう何かをいうのをやめた。こんなくだらないことでいい争いをしている時間が無駄に思えてきた。ただ、言っていたことと現実が違うということでもうあまり信用できなくなったので、僕は彼女としばらく話すのをやめようと思った。

ヨーロッパに来て、ライブモカの友達はほぼ壊滅状態と言っていいほど僕にとって意味をなさなくなってきた。ほとんどの友達は会うことすら出来ないといい、時にはメッセージすら返ってこない。イタリアにもフランスにも友達はいたが、会えなかった。またこれから行くイギリスにもスペインにもライブモカでの友達はいるが、ほぼ壊滅的に会えなさそうだった。唯一会えた、ずっと信頼関係を構築してきたファニーがこの有様。

ライブモカに関しては中南米とは天と地ほど、違っていた。中南米のような気軽さやフランクさがなく重い。そして冷たい。家に泊めてと言っているわけでもなくただ友達として会おうといっているだけなのにもかかわらずこの重さ。これは中南米にいた1年間あまり連絡をとらなかったからなのか?もともとヨーロッパの人たちは中南米の人たちと性質が違うのか?何が理由なのかはよくわからなかったが、僕の旅のスタイルはライブモカからカウチサーフィンにシフトしていかざるを得なかった。

カウチサーフィンがあったのは運がよかった。ライブモカだけだったらこのヨーロッパはひどくつまらないものになっていたと考えると怖くさえあった。今もこうしてカウチサーフィンでフランスに滞在している。それは金銭的な意味でも旅の楽しさという意味でもあるのとないのでは大きな差があった。

人と人のつながりだけではなくて、旅をしていても日本にいても、自分が欲しくないときには目の前に現れ、欲しいと思ったときには探しても探しても見つからない。スーパーマーケットや飲料用の水道、公衆トイレなどの細かいところから、目当ての建築や美術館まで、なぜか行きたいと思ったときにはなかなか見つからず、たいして気にしていないときにはすぐに目の前に現れる。

だが、あるとき気がついた。ガイドブックを見ながら探しても探しても見つからなかったものが人に聞いたり、むしろただ歩いているだけでいとも簡単に見つかるということがよくある。頑張っても頑張っても出来ないことがある。何にも頑張らなくてもある日突然ふっとできるようになったりする。期待して期待した結果が散々になることもある、何にも考えていなかった結果が素晴らしいものになることもある。

僕は焦っていたようだ。エジプトであの人と離れてから、そして彼女と自分の気持ちの変化に気がついてから、僕はどこか心の支えを失っていたようだ。それはどうしても多くの人と、多くの外国人と、話をしたい、遊びたい、友達になりたい。という焦りに変わり、中南米のようにうまくいって欲しいと焦れば焦るほど、期待すればするほど、うまくいかなくなっていたようだ。

事実、何にも期待していなかったカウチサーフィンではイスタンブール・ナポリ・そしてここニースで多くの素晴らしい出会いがあった。それは意外性にみちていた。期待していたサンレモではこの有様だった。僕は中南米でライブモカを使って人との出会いに成功した分、ヨーロッパでのライブモカに過度に期待しすぎていた。何かが変化していくという現実には自分自身が変化して対応していかなければならない。

もう一度自分の支柱を取り戻そうと思った瞬間に僕は落ち着いた。

人との出会いを求める旅になっているが、出会いを求めるために旅をしているわけではない。
「四葉のクローバーを見つけるために、三つ葉のクローバーを踏みにじってはいけない。幸せはそんな風に探すもんじゃない。」 という言葉を思い出した。

そして楽になった瞬間にまた出会いはやってきた。

アクセルは僕をフィエスタに招いた。僕はフィエスタでフランス人に囲まれて、まったくフランス語が話せず笑顔でいることしか出来なかったが、ここにはフランス人と結婚している在住の日本人がいて、僕は彼女と話をして、他のフランス人とボディランゲージと笑顔でコミュニケーションをとりながらフランスのワインを飲み、フランス料理を食べた。アルザス地方のワインはちょっと甘いということを彼女は教えてくれた。ワインも料理もありえないくらい美味しく、またどこか優雅だった。フランスはイタリアと違って人までどこか優雅なのは僕の気のせいなのかはわからなかった。アクセルは何故か酔っ払ってすぐに寝てしまっていた。

彼女は僕に地球の歩き方を貸してくれ、僕は次の日にモナコに向かった。ニースの中心だと思われる広場から100番のバスで1ユーロでバスに乗れた。

バスの途中から見える地中海とその湾岸を望む自然と家々の景色は素晴らしかったが、天気は悪かった。

天気の悪い灰色の空を見ていると1時間ほどでモナコについた。モナコは一応国ではあるが特別パスポートがいるわけでもなく通貨もユーロであり、雰囲気もフランスそのものだった。むしろモナコはフランスの空気をさらに優雅にしたような雰囲気で街全体がリッチ臭に包まれていた。

住んでいる人も旅行者も全員が明らかにお金持ちだった。世界一場違いな、そしてお互い一生用がないだろう場所に僕は数時間歩き回り、公爵の城から街を眺め、カテドラルで座ってぼーっとして、カフェでカフェオレを飲んで、「カフェオレとカフェラテって何が違うんだろう?」などと思ったり、グランカジノのあたりをうろうろとしていた。天気も悪く冬も近づいてきていて寒かった。

歩きながら僕はちょっとだけまた何故長期旅行をしているのかを考えた。しかも1年を超えても帰らない。こんなことを考えても無駄だということは分かっているけれど考えた。

僕は歴史も語学も好きだけど、何よりも、三度の飯よりも長期旅行が好きだから旅しているのだとしか思えなかった。

グダグダしていても観光ができなくても、一人でも、無駄に節約していて楽しめなくても、何もかもがうまくいかなくても、思ったとおりにならなくても、寒くても暑くても、体調壊しても、言葉通じなくても、長期旅行が好きだからやっているんだと。

中南米にいたときにも「何しているんだろう?」とか「この旅を続けて後悔しないかな?」と考えたことがあった。だが、今僕にとって中南米の旅を後悔する感覚は一ミクロもなく、最高の思い出となった。今も今考えていても、悩んでいても、後になったら最高だったと思える日が来ることは確信していた。

また100番のバスに乗って家に帰った。徐々にここでの暮らしは観光旅行ではなく生活となっていた。

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