ポーランドのクリスマス前



ポーランドのクリスマス前

~初めて出会った友達~

僕はキエルツェ行きの列車に乗った。列車の中はコンパートメントで、あまり表情のないポーランド人数人と一緒になり、全く意味の分からないポーランド語が飛び交う中、僕は眠っていた。列車は旧ソヴィエトを思わせるような古い車体だった。ソヴィエトは東ヨーロッパから日本の近くまでまたがっていた国だったためかこの古い列車にはどこか昭和を思わせる懐かしさがあった。

キエルツェという街を僕は今まで聞いたことがなかった。もともとポーランドは首都ワルシャワと6年半前にいったクラクフしか知らなかった。

ここに来たのはライブモカで知り合った友達と会うためだった。2012年約30組目にして最後のホームステイとなる。カウチサーフィンではなくライブモカ、南米では大活躍したライブモカもヨーロッパではほとんど友達が出来ずカウチサーフィンにシフトしていったヨーロッパの旅だったがごくわずかに、日本を出国する前の友達がいた。これまで2人だけ会ったがいずれもそんなに仲良くなったわけではなかった。だが、今回は期待していた。

ソーニャというポーランド人大学生は僕が三茶にいたとき、ライブモカで僕に話しかけてきた。あれは僕がスペイン語を勉強し始める前であり、あの東日本大震災よりも前であった。あれから2年が経過している。

日本語学科で勉強している彼女は日本語の勉強に熱心で、彼女のほうからスカイプやフェイスブックで友達になりたいと言ってくれた。当時僕はまだライブモカの使い方をよく知らなかったがこうやって外国人と友達になれるということを教えてくれた。

彼女は僕にとってある意味ではこの旅最初の友達であり、人生ではじめての欧米人の友達だった。

三茶にいた頃、僕らはそれなりに連絡を取っていた。いつかはポーランドに行くからその時は是非会おうねというようなことも言っていた。彼女は当時日本語がそんなに上手くなく会話はいつも英語だった。僕は当時英語でやりとりをしている自分にびっくりした。インターネットで欧米人と友達になれたというのが不思議で不思議でしょうがなかった。

東日本大震災が起きたとき彼女は僕に連絡をくれ、フェイスブックで日本を応援する千羽鶴を折った写真をアップしていた。僕はこの写真を見て、日本という国を見直し、日本以外の国に希望を持った。彼女に深く感謝しそしてそれからも連絡を取り合うようになった。

だが、他のヨーロッパの友達と同じように、僕の心は南米のスペイン語にシフトし、段々と彼女とも連絡を取らなくなっていった。いつの日か久しぶりにチャットをしたとき、彼女はひらがな・カタカナ、いくつかの漢字も流暢に使いこなせるようになっていた。

そんな中、僕は治験やそのほかのルーティングを考えた結果、クリスマスにポーランドに行くと彼女に言った。彼女はヨーロッパのライブモカの友達の中では珍しく自ら自分の家に泊まりにきてほしいと言ってくれた。彼女はトルンという街で大学の寮に住んでいるため普段なら家には泊まれないがクリスマスは実家に帰るためクリスマスパーティーに招待してくれるということになった。

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キエルツェの駅の正面で彼女と会うと、彼女は挨拶もよそに「早く列車に乗りましょう」と言った。僕らは急いで別の列車にのった。

列車の椅子に座り僕は日本語で「はじめまして」と言った。彼女も日本語で「はじめまして」と言った。

列車の中で彼女と僕はすべて日本語で会話をした。2年前はほとんど日本語を話すことが出来なかった彼女は2年が経過した今、基本的な文法を抑えたとても綺麗な日本語を話した。こういうスラングのない綺麗な発音と綺麗な話し方は、本気で日本語を勉強した外国人にしか出来ない。この2年間の間に英語やスペイン語を中途半端にしか勉強していない僕はすでに英語がペラペラで日本語も流暢な彼女を本気で尊敬した。

彼女の実家はキエルツェからさらに列車で15分ほど行った小さな村にあった。駅を降りてから僕らは暗い森の中を歩いて彼女の実家に向かった。ポーランドというドイツと旧ソヴィエトに囲まれたこの国はどこかドイツであり、どこかソヴィエトであった。この真っ暗な森は昔見たことがあるマリスミゼルの月下の夜想曲のPVにありそうな幻想的でエキゾチックな場所だった。

「こんなところ絶対に一人で来れないよ。観光旅行ではポーランドの村に行くことなんかないからこんないい経験が出来て本当に嬉しい。ありがとう」と僕が言うと彼女は恥ずかしそうに笑ってくれた。僕はなんだか嬉しくなりこの極寒の森の中を歩いた。

家に着きお父さんとお母さんとおじいさんと弟に挨拶をする。弟は英語が話せるが他の家族はポーランド語しか話せない。ソーニャは通訳をしてくれ、僕は自分に出来る最高の笑顔で彼らと話をした。物理的になにもできない自分にとって唯一できることは笑顔で話すことだった。

僕はソーニャと一緒に日本の映画を観たり、先祖のお墓参りにいったり、クリスマスツリーの飾り付けをしたりした。そして何よりも日本語で色々なことについて話をした。彼女は本を読むのが好きで、また勉強家でもあった。そのため、僕が日本の色々なことを説明するとそれに対して興味を持ってくれ真剣に話を聞いてくれた。僕らはポーランド及び東ヨーロッパの歴史について話をしたり、日本の文化について説明をした。真剣に話を聞いてくれる彼女の姿は尊敬すべきものであり、また僕と気が合うタイプでもあった。

また、彼女はとても日本的で僕をゲストとしてというよりは日本語の「客」としてもてなしてくれているようだった。お茶がほしいですか?ご飯が欲しいですか?今日はどこに行きたいですか?といつも聞いてくれた。それはフレンドリーでありどこか日本的な礼節がわきまえられてあった。僕は真剣に日本語を勉強し、日本のことを分かろうとしてくれている彼女が大好きになった。

ポーランドに限らず多くのヨーロッパの国においてクリスマスは日本のお正月のような感覚で家族が集まって一緒に静かに祝うものなのだと、この家族を見る事でなんとなく分かった。知識ではなく自分の感覚でそれを感じた。

そんな家族にとって1年でもっとも大切な日に日本人の他人がいるにもかかわらず、家族は僕を温かく迎えてくれた。娘が実家に帰っているのに何故か怪しい日本人をつれてきているという意味不明な状態も関係なく、むしろこのポーランドから遠く離れた島国の人間に興味津々で、言葉が通じないにもかかわらずどこか通じ合っている気さえした。

相変わらずポーランドの外は極寒であったが、僕は温かい家族に囲まれてご飯を食べて、ただ家にいるだけで幸せだった。2012年最後のホームステイは2年越しの思い入れのある、そして最高に温かい家族だった。

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