日本語教師になるきっかけ





~29歳の新機軸~

この治験の薬は成長ホルモン剤、成長ホルモンが足りない病気の子供に薬が投与することになる。現在も同じ成分の薬を処方しているが、その薬では効き目が長持ちせず、一日ごとに子供に注射しなければならない事態になっている。だからこの治験を経て、効き目が長持ちする薬を世に出したい。

・・・そんなことが事前にもらった治験の概要という紙に書いてあった。

この薬の実験台になることで病気で困っている人たちの役に立てるというボランティア的な要素も少しだけ芽生えなくもなかったが、それ以上にただ、副作用がでないかどうかだけを心配していた。

ドクターは僕の太ももにペンで印をつけ、そこに注射を打った。針が刺さる痛みと薬が注入される痛みが体に駆け巡った。注射をしたのは何十年ぶりか分からない。

血圧を測り、心電図を測り、尿検査をして、問診を受ける。そしてドクターは去り、看護師たちは採血の準備をはじめた。僕の腕に針を刺し常に採血ができるような器具を取り付けた。投薬当日は2時間ごとに採血がある。治験を受けている全部で8人の日本人は皆ネットをしたり、本を読んだり好きなことをしているが部屋からでることも出来ない。2時間ごとに看護師がやってきて血を採る。

この治験は全部で入院が2回ある。今回の入院が始まり4日間で退院、その後通院を1週間ほど繰り返し、再度投薬し入院そして解散されまた2週間後に事後検診を受ける。入院以外は外に出るのも自由で食事もすべてつく。

ただ、この入院中の5日間だけは病院の外に出ることは出きず、完全に隔離状態になる。

この実験薬はダミーが数個まぎれている。ダミーを数個まぎれさせておいて、本物の実験薬とダミーを投与した場合の反応を比較するらしい。僕は自分がダミーに当たったと思えるほど、全くもって何の症状も副作用も出ず、効き目も感じなかった。だが、話を聞くと8人全員が同じような状態だった。

だが、3日間ほどつけていた注射の器具は僕を悩ませた。常に針が自分の腕に刺さっている状態であり、それは針自体が刺さっている痛みはないものの、異物感は常にあり、なおかつ腕をうまく動かせなくなった。このためパソコンを触ること意外何も出来ず、左利きであるにもかかわらず食事は常に右手を使い、歯磨きも右手を使いシャワーを浴びることもできなかった。他の人は僕のようにはならず普通に生活をしていた。

治験の注射

・・事前検診からこの入院期間までの10日間に、僕は29歳の誕生日を迎えた。29歳というお兄さんからおじさんにかわりつつある年齢の中で、僕は将来経済的・社会的に安定的に自立し、なおかつ自分の好きなことをやり続けるための軸を行動に移した。

僕は旅に出る前、こんなことを自分の日記に書いていた。
「今もまた同じようにちょっとの不安と大きな希望を持って旅に出ようとしている。そして旅から戻ってきたとき、また自分が大きく変わっていて、見える世界がまた変わっていて、そこには新機軸となる目標が見えていて、そしてそこに向かってまた考えて考えて走っているのだろう。 」

僕はこの旅を続ける中で、自分がいかに駄目な人間であるかを知った。それと同時に自分が言葉が好きで外国語が好きであるということを知った。ネットの誘惑に負けたダラダラとしたよくわからない旅だったが、それでもやはり自分が本当に好きなことを見つけるには役に立った。

そして僕はこの旅の中でインターネットの技術により自分が日本にいる必要性も失っていた。

また僕はエジプトで今後一緒になっていくと思われていた人と極めてあっさりと別れた。別れを告げられたとき、全く悲しくなかった事実は僕が彼女よりも好きなものがあるという裏返しだった。また、言い争いをしたとき、もはやどうでもよくなったのも、彼女よりも大切なものがあるという裏返しだった。僕は常に自分の胸にもやもやしたものがあったにも関わらず、最後まで自分から別れを切り出すことはしなかった、自分の夢が消えて彼女と平穏無事に暮らすのか、彼女と別れて新たな自分の新機軸に向かうのか、それは神様が決めることだと思っていた。そして神様は後者だと決めた。

だが、恋人としては駄目だったが、教育者としては一流だったとは今でも思っていた。僕は彼女から教育という面でもかなりの影響を受けていた。

なによりも、この旅を始めてから僕はライブモカとカウチサーフィンというサイトを使って何十人という外国人と話し、一緒に遊んで、いくつもの家にホームステイをしてきた。僕はこの旅のなかで数々の外国人にお世話になりながら、常に感動し、常に自分の小ささを知り、それでもダラダラして人のために何が出来るかを模索しながらも何も出来ず、何も出来ずにいる自分と戦いながら旅を続けてきた。

カウチサーフィンで家にホームステイさせてくれた人たち。また日本語を学ぶためにライブモカを使って僕と知り合った人たち。多かれ少なかれ僕が出会ってきた人たちは全員、僕個人を含めた日本人や日本というものに興味があり、だからこそ見ず知らずの外国人と友達になりたいと言い、家に泊めてくれた。

僕は数々の感動的な出会いと、表現できないほど悲しくなる別れを繰り返してきた。その中で彼らからもらった表現できない何かを糧にして、自分が外国人になにが出来るかということをずっと考え続けていた。

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人と話したり何かを教えることが好き
日本語が好き
外国人が好き
外国の文化や地理歴史が好き
という自分の性格



インターネットのおかげで常に誰とでも連絡は取れ、日本にいる必要はないと知った
自分が好きだった人と別れ日本で暮らす必要性はなくなった
自分が好きだった人から教育者としての影響を受けた
この旅を通して何十という日本を好きな外国人と出会ってきた
というこの旅の中で自分が感じたこと。

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人と話したり何かを教えることが好き
日本語が好き
外国人が好き
外国の文化や地理歴史が好き
という自分の性格。



インターネットのおかげで常に誰とでも連絡は取れ、日本にいる必要はないと知った
自分が好きだった人と別れ日本で暮らす必要性はなくなった
自分が好きだった人から教育者としての影響を受けた
この旅を通して何十という日本を好きな外国人に出会ってきた
というこの旅の中で自分が感じたこと。

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僕はこの旅の中で考えた自分の性格と旅で感じたことを心の中で反芻した。実際、この反芻は旅を始めてからずっと行われていて、僕の胸に常に響いていて、そしそれは日を増すごとにぼんやりとした抽象的なものから、鮮明で具体的なものに変化していった。それは気がつかないほど小さい変化だったが、毎日毎日、確実に変化していった。

この1年3ヶ月。徐々に高まるこの反芻から一つの帰納法的な結論が導き出された。

日本語教師になって外国で暮らしたい。

ようやく行動に起こす時がやってきた。

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