ドイツ治験生活





~忙しい日々~

日本語教師養成講座の申し込みをしたとき、教材が届くまで2週間ほどかかるという返事をもらった。僕はわくわく感と焦る気持ちを抑えながら教材が届くのを待つことにした。

いつの間にか入院期間も終わっていた。注射の器具ははずされて自由に行動できるようになった。朝に採血と心電図の検査だけやるが、その後は基本的にすべて自由だった。外に出ても検査のときまでに戻ってくれば何も言われない。

デュッセルドルフやノイスはフランスやオランダ・ベルギーに程近く、列車で1時間もかからずに国境を越えることができるという話を、フランス在住の日本人は教えてくれ、定期を貸してくれた。僕はこの間、治験を受けている日本人と一緒にオランダに出かけた。無料でオランダにいけたのはラッキーだった。

病院から外に出るのは久しぶりだった。1月も中旬に入り、外はいつの間にか雪が降り積もっていた。

ノイスの駅から列車に乗り、小一時間ばかり話をしているといつの間にか列車はドイツの国境を超え、オランダに到着していた。

僕たちは地図もガイドブックも何も持っていなかったのでどこに行けばいいか分からず、とりあえず駅から旧市街の辺りを歩いた。

オランダの雰囲気はドイツとは違っていた。旧市街の雰囲気は確かにドイツではなかった。ドイツのようながっしりとした堅固な教会やヨーロッパの伝統的な建築ではなく、どちらかといえばかわいらしい、そしてフランスと違ってそんなには豪華に見えない、明らかに別のヨーロッパの国だと分かった。

オランダ

「長崎ハウステンボスみたいですね」と隣の人に言った。長崎ハウステンボスに行ったことはなかったがそんな気がした。オランダは17世紀ごろ、日本が貿易をしていた唯一の国。日本とのゆかりも深い。

そんな話を隣にいた人に話すと彼は「オランダ人は第二次世界大戦の関係で対日感情が悪いらしいよ」と教えてくれた。僕らはマックでコーヒーを飲みながら小一時間ばかり話していた。マックのコーヒーはドイツの2倍くらいの値段だったので僕らは驚きながらもどうしようもなく温かいコーヒーを飲んだ。

オランダ名物コーヒーショップも観光として行ってみたかったが、旧市街を歩いていても見つからなかった。オランダはジョイントが合法的に吸える唯一の国。この、ある種の人々にとっては地上の楽園のような国。僕はこのとき治験中のため一切吸わなかったが、「日本でも合法化されてくれればもっと社会はよくなるのになぁ」とは思っていた。



病院に戻り、僕は充実した日々を過ごした。

朝起きて注射を打たれ、心電図を測る。そして時には眠り、時には語学やヨーロッパ史を勉強したり、するといつの間にかお昼になる。お昼は決められた用紙にチェックをつけて時間と自分のIDを書き込むとキッチンから料理が運ばれてくる。

お昼を食べるとまた自由時間になり、また勉強したり昼寝したり、いつの間にか夕食になり、夜も同じようにダラダラと過ごす。

この間に同じ治験を受けている日本人とも話をするようになった。フランスやドイツのワーホリに言っていた人もいて話を聞けば聞くほどワーホリにいきたくなった。もうあと2年しかない。ワーホリへもいつかは行きたいがどうなるかは分からないなと思いながら話を聞いていた。

この後行くモロッコかアルジェリアでの生活のため、フランス語まで勉強し始めた。出来ればアルジェリアに行きたいと思っていた矢先にアルジェリアで日本人人質事件が起きた。余計に情勢は流動的になり、ビザを取るのは難しくなりそうだった。

日本人と話をすると、勉強できなくはなったが、それはそれで楽しかった。治験中なのであまりアルコールを飲んではいけないが、ドイツビールを飲みにいったりもした。ドイツに来たらビールを飲まないわけにはいかない。

一人で飾り窓にいったりもした。ドイツ・オランダ・ベルギー辺りに特有のこの風俗施設はありえないほど面白かった。マンション全体が風俗になっていて、窓から娼婦が誘いをかけてくる。その光景はヨーロッパでもこのあたりでしか見ることが出来ない。中に入って娼婦と話したりするだけでも面白かった。

暇なはずの治験生活はなぜか忙しく、充実していた。1日が過ぎるのも、1週間が過ぎるのもありえないほどに早かった。この治験の入院生活は楽しかった。だが、治験が終わるまでここでゆっくりとしていたいと思いながらも、そうもいかなかった。

「シェンゲン協定など崩壊してしまえばいい。」と思いながら僕はトラムに乗ってデュッセルドルフ中央駅に向かった。

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