ウクライナ/リヴィウ





~古都~

ドイツのイミグレは意外にも簡単に通り抜けることが出来た。ギリギリ90日のシェンゲン圏滞在のことでイミグレでもめることを予想していたため、あまりにも簡単な出国審査に僕は拍子抜けすらした。

飛行機の中でいつものように眠り、気がついたらリヴィウに着いていた。これで何とかシェンゲンをクリアしたと安心していたが、もう一度シェンゲン圏に入らなければならないと思うと、そんなに安心できるものではないと考え直した。

僕は空港で当面の分の現地通貨をATMで降ろし、事前に予約した宿の住所を元に僕は市内へ行くトロリーバスを待った。ウクライナは寒いというイメージがあったが、実際にはそこまで寒くは無かった。ドイツやポーランドと変わらない、マイナス1,2度くらいの寒さだった。それでも日本と比べれば寒い部類には入るが、ずっと寒い生活を続けているせいか、寒さに慣れてきていたという事情もあった。

トロリーバスはぼろぼろだった。東ヨーロッパという旧共産圏の雰囲気とイギリスやフランスに比べて経済発展をしていないという雰囲気は十二分に出ていた。それは物価を見ても明らかだった。市内に向かうバスは日本円にして20円もしなかった。片道1500円以上したイギリスと比べると100分の1程度になる。

市内についたころには辺りは真っ暗になっていた。寒さに慣れたといっても夜の寒さはさすがに耐え切れないものがあり、手がかじかむのを我慢しながら宿を探した。バックパックが重い。雪が降ってきた。地面は凍って歩きにくい。久しぶりにバックパックを背負って歩いたせいか、雪で滑らないように気を遣って歩いているせいか、多少の疲れが出てきた。

道を尋ねながら何とか宿にたどり着き、すこし落ち着いた。ほとんど英語が通じなかった街中と違い、宿のスタッフは多少英語が話せるようだった。英語でやり取りをし、西欧では考えられないほど安い値段でかなりクオリティーの高い宿に泊まることが出来た。

僕は久しぶりの日本人が誰もいないドミトリーで眠った。



ウクライナは旧ソヴィエト連邦の構成国であるものの、リヴィウはその中でも地理的にも歴史的にもポーランド・オーストリアの影響が強く、ロシア正教の教会ではなくカトリックの教会が立っているという話をドイツの病院で聞いていた。

街を歩きまわると確かにオーストリアのような洒落た建物が並んでいる。教会も趣があり、そして内装は豪華である。これはどちらかといえば自分が持っている帝国ロシアのイメージに近かった。白い陶器と金をふんだんに使った内装。これはイタリアでもフランスでもイギリスでもドイツでっもみたことがない。

ウクライナの教会

ウクライナの教会

ウクライナの教会

ヨーロッパのいわゆる中世的な、歴史映画の中に出てきそうな豪華絢爛で美しい建物はフランスにもドイツにもイギリスにも当然あるが、むしろ東欧の方が、チェコやポーランドやハンガリーやウクライナの方が、全体的な中世の歴史的な、所謂ヨーロッパの雰囲気は残っているのではないかと思えた。日本人にとってなじみの薄いこれらの国々に、先進国には見られないある種独特の、ヨーロッパ的なものは潜んでいるように思えてならなかった。

そんな中世ヨーロッパの建物と石畳が並ぶリヴィウは、ソヴィエトの雰囲気も消えてはいなかった。トロリーバスはぼろぼろで、所謂ロシア的な機械のような冷たい顔をしている人がいて、そしてスーパーマーケットではなく個人商店がほとんどで、路地裏はどこかキューバのような滅びた町の様相を呈していた。

リヴィウ

リヴィウ

僕はこの街をブラブラと歩き回り、カフェでコーヒーを飲み、慣れないキリル文字に戸惑いながら、そしごく普通に街中を歩いているモデル並みの、本当に作られたのではないかと思えるほど、本当の意味で人形のような異常に綺麗な女性を見て目の保養にしながら、リヴィウでの日々を過ごした。

僕は最初ルーマニアに行く予定だったが、行きたい場所のダイレクトバスや電車が無いことを理由にやめた。また、カウチサーフィンで受け入れてくれそうなホストがあまりにも多すぎて、全員とゆっくり遭えないということもやめた理由の一つだった。僕はルーマニアのカウチサーフィンの友達全員に、数ヵ月後にルーマニアへ行くことをつげ、フェイスブックを交換した。

このままシェンゲンの半年が経過する2週間の間ウクライナに滞在し、その後シェンゲン圏内のハンガリーに入国するルートを考えた。

結果、どうやらハンガリー国境の近くにも大きな街はあるらしく、ウージュゴロドという街に行くことにした。

流れるように時は過ぎていった。この旅を始めてからどんどんと過ぎていく時間の感覚を僕は止められないでいた。

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