ブラジル・サルバドールとサンパウロ
 



〜サルバドールとサンパウロ〜

夜中の3時に飛行機はサンパウロの空港に到着した。ボゴタ発サルバドール行き、このチケットはサンパウロ経由だった。

サンパウロのトランジットは19時間あった。夜中について次の日の夜に出発。僕はこのトランジットを利用してサンパウロを観光しようと考えた。

夜中、空港の中は明るかったが、ほとんど人がいなかった。リマでもらった地球の歩き方を見る限り、今の時間はセントロに向かうバスもなさそうだったのでどこかで休もうと思い、インフォメーションセンターに行った。インフォメーションセンターだけは24時間やっているようだった。

ブラジルはアメリカ大陸で唯一、公用語がポルトガル語の国。ブエナスノーチェスはボアノイチに代わり、オラはオイに変わり、グラシアスはオブリガードに変わる。今までスペイン語をやっていた僕にとってそんなに魅力を感じなかったのもそのせいだった。だが、スペイン語とポルトガル語は兄弟のような言語、単語も7割方同じであり、文法はほとんど一緒だった。僕はボゴタで文法をネットで調べ、1時間だけ勉強していた。

インフォメーションセンターで慣れないポルトガル語を話した。スペイン語の単語を全部ポルトガル語に直してポルトガル語っぽい発音で話せば通じるのだと楽観的に見ていた。最悪スペイン語を話しても相手は理解してくれる。事実、空港を歩いていてもある程度標識は読むことができた。ほとんどスペイン語と一緒だった。

だが、相手が何を言っているかは一切わからなかった。僕はインフォメーションセンターの人が何を言っているのか一字一句理解できず、とりあえずこの人が指を指した場所へ行った。だが、簡易ベッドはすべて埋まっていた。

僕はすでに眠くなってきていて、横になれれば何でもよかった。人がいなさそうな場所を探して、飛行機からくすねてきた毛布を床に敷き、バックパックを枕にして眠った。

バックパックを枕に

起きたときには朝11時をまわっていた。寝すぎたかと思ったが、眠ったのが4時か5時ということを考えれば普通なのかなとも思った。おきてまずやることは両替だった。できるだけレートのいい両替所を探さなければならない。一般的に空港のレートは悪い。小額のドルを空港で変えて、後はセントロで変えたほうがいい。僕は空港内を歩き回りレートのいい場所を必死に探した。言葉が通じない、というよりも中途半端にスペイン語風に、ポルトガル語を話してしまうために、相手がポルトガル語で返してきてそれがわからない。その状態を繰り返した。数時間かけてようやく両替を終え、空港に荷物を預け、バスでセントロまで向かった 。

旅の初めは500ドルほど現金を持ってきていたが、初めの1ヶ月で使い切っていてそれ以降はクレジットカードを使っていた。だが今はない。強盗 に遭った後はドルを逐一両替していくことしかできなかった。

言葉の通じなさ・現金を空港で両替すること、、、、旅の初めにタイムスリップしたようだった。



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セントロから地下鉄でリベルダージ地区へ向かった。道を聞いても話がわからない。これは久しぶりの感覚だった。ポルトガル語はスペイン語に似ているといってもたかだか10ヶ月スペイン語圏を旅行していた外国人がわかるほど簡単ではなかった。僕は四苦八苦しながら道を聞き、ようやくリベルダージ地区についた。

リベルダージ地区はブラジルの日系移民が作った街である。「街には日本風ののぼりが立てられ、日本人が多く、日本語が通じる、まるで日本のようだ。ブラジルという日本の裏側の異国の地で日本人が活躍している」というのを以前本で見ていた。

だが、街はそんなに日本人街のようにはなっていなかった。確かに日本の古本屋があり、日本料理屋があり、もやしやお寿司を売っているスーパーなどもあった。だが、街にもスーパーにも普通に白人系や黒人系ブラジル人が街を歩き、生活をしていた。日本語もそんなに随所には見られなかった。どちらかというと日本人街というよりはブラジル社会に日本が溶け込んでいるというような感じがした。

リベルダージ地区を出ると、景色は普通の南米の街に変わった。教会が随所に見られ、近代的なショッピングセンターや、劇場などがある。ブエノスアイレスやサンチャゴと変わらない、普通の大都会だった。だが、街を歩きながら、オリンピックやワールドカップなど、これからの数年間の間に、必ず高度成長していくだろうこの国の経済を思うとうらやましくなった。日本のようにすでに成熟した経済、そしてこれから落ちていく可能性が高い経済状態。ブラジルとは対照的だった。これから伸びていく国は活気がある気がした。

サンパウロ

サンパウロ

サンパウロ観光は終わった。今までのだらだらとした旅とは対照的に時間は限られ、なおかつ時間は決められていた。僕は空港へ行き、サルバドール行きの 飛行機を待った。チェックインをすると何故かTAM航空の人はもともとマセイオ経由で朝4時に乗り換えて朝6時に到着するという地獄のような便をサルバドールへダイレクトに行く便に変更してくれた。僕はオブリガードを連発しながら飛行機に乗った。

サルバドールはすぐについた。ボゴタからサンパウロももそうだが、バスだと何十時間もかかる距離を2,3時間で行ってしまう。便利なものだと思った。到着は夜中の2時だった。サンパウロとの時とは違い、今度は最初から床で眠ろうと思い、人がいない場所を探して眠った。バスや飛行機だと体が180度に倒れないのであまりよく眠れないが、体さえ倒れればどこでも眠ることができる自分の体に気がついた。これで野宿もできる。



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サンパウロと同じように、空港の床で朝まで眠り、バスでセントロまで向かった。

セントロの安宿でメールチェックをしていると、家族から何故かウエスタンユニオンでの送金ができなくなったという連絡が来た。僕はもう100ドルしか持っていない。クレジットカードを持っているあの人と会うのはまだ10日も先のことだった。まずはもっと安い宿に移動しなければならない。僕は宿のネットで日本人宿「青い家」を見つけそこに移動した。日本人がいればちょっとは助けてくれると期待していた。

その後、あせりながらも最善の策を探し、申し訳ないながらもあの人に送金してもらった。僕はあの人の事情を知っている。情報として知っているのではなく、自分も同じ経験をしている。そんな中で軽い気持ちであの人に送金を頼むわけにはいかなかった。僕はできるだけ丁寧に状況を説明して謙虚な気持ちでお願いした。

彼女はやってくれた。本当にごめんなさい。そしていつもありがとう。僕は常にこの気持ちを忘れないようにしていた。ただ、自分が彼女に対して何もできないことが嫌だった。エジプトに行ったら、どんなことでもしようと思った。あの人は、それだけの価値がある、大切な人だった。

日本人宿であるはずの「青い家」には日本人は一人もいなかった。だが、一人でドミトリーを使うことができ、送金も無事に完了し、僕は安心してサルバドールを観光できた。

サルバドールは黒人の街だった。どこに行っても黒人がいた。黒人がカポエラをやり、黒人が路上で物を売っている。僕はここまでたくさんの黒人を見たことがなかった。そしてこの街には僕が好きなものがすべて詰まっていた。

青い空、青い海、綺麗で、そして廃墟のような教会群。街を歩くのは楽しかった。ビーチにいるのも楽しかった。日数は少なかったが僕はずっと歩いていた。すべてが楽しかった。

サルバドール

サルバドール

サルバドール

サルバドール

僕はここでポルトガル語を勉強できたらなとも考えた。今は無理だけどいつかはできるかもしれない。未来は常にわからない。

そして・・・・ついに・・・・日記を書くのも最後になった。

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