ナスカのフライトをしない
 



〜チャリダー〜

ナスカの地上絵は展望台から見ることが出来た。といっても、実際は大きすぎてただ線が書いてあるだけだった。それよりもミラドールからナスカの街に向かう道は広大な砂漠が広がり、僕を旅している気にさせた。

僕がリマに向かおうとしたその日、トミは「先生と連絡がつきました。」と言った。「私はその人を常に先生と呼んでいた。」という夏目漱石の小説、こころの一節は後から読んだ彼のブログに書いてあった。

先生はトミと同じく、自転車でアメリカ大陸を縦断している途中だった。また、これもトミと同じように、強盗に会っていた。「先生は不器用で、純粋で、超いいひとっすよ!!」と前日、暗黒のピスコを飲みながら、トミは何度も叫ぶように僕に語りかけた。僕はアフリカの煽り以外、その時のすべての記憶は無くなっていたが、この台詞は妙に印象的だった。

僕は先生と会うためにリマに向かうのをやめた。

僕は彼と一緒に先生のいる宿に向かった。そして暗黒のピスコの日以来、今度は3人でビールを飲んだ。ピスコを飲む体力はなかった。

先生は肉を焼き、僕とトミはベッドに座ってビールを飲みながら、だらだらと笑いながら、時には真面目に、とにかく話し続けた。

彼らはよくチャリダーにしかわからない会話をした。自転車の部品の話やどこの街からどこの街は何百キロとか、どこのルートは坂が多いとか、僕にはまったくもって未知の世界だった。同じ国を周ってきている筈なのに、話に出てくる街の名前が違う。バスの旅と自転車の旅ではおそらく同じ国をみても違うものが見えているのだなと自分とはぜんぜん違うものを見ている彼らに感心し、そして爆笑しながら話を聞いていた。

暗黒のピスコの日と同じように、また、キューバでの日々と同じように、このアホなチャリダー達との話は途切れなかった。いつまでもいつまでも永遠に話は続く気がした。

二人はまったくと言っていいほどチャリ旅をスムーズに進めていなかった。というよりはスムーズに進めることができていなかった。強盗、詐欺、スリ、犬、、多くの困難をヘラヘラ笑いながらギャグのように話すのは聞いていて元気が出た。先生は無駄にシャイで無駄に強気にべらべらとしゃべった。こういう不器用な性格は自分に似ているからか、僕はこういう無駄に強気な人間が好きだった。

僕は彼らに比べて楽に楽しくやっている。ちょっとだけこのアホなチャリダー達がうらやましかった。彼らは何のメリットも何の意味もなく、ただチャリでアメリカ大陸を移動しているだけ。。。

「別に何が楽しいとか、意味があるとかじゃなくてただいくだけっすよ!」「意味っていうのは社会的な意味じゃないっすか!?社会に対して意味があるかどうかじゃなくて自分にとって意味があるかどうかでしょ!?」「ただウシュアイアに行くだけです。」トミがこういったとき、僕ははっとした。

意味?そんなことを考えている余裕があるほど自分自身の旅に余裕があるということが嫌だった。

だけれども、僕は僕で自分の好きなように旅をしていた。比べる必要はなかった。

「そういえばキューバで会ったとき、愛を伝えるために旅したいっていってましたよね?」

とトミに聞かれたときに思い出した。恥ずかしくて誰にもいえないような理由、言ったことすら忘れてた。そうだ、僕は現地人と話し、一緒に生活することで人に愛を与えたいと確かにキューバで言っていた。キューバでトミに話したことは忘れていたけれど、この言葉は僕の体に染み付いていた。僕はさまざまな人に自分の出来る範囲精一杯愛を与え、楽しんでもらい、そして多くの様々な愛をもらってきた。これでいい。これだけでよかった。冒険もしたいが、まず、中南米で多くの人に愛を与えるために結果としてやってきた。そしてそれを続ける。それだけでよかった。

会話は続いた。会話の中で何で旅をしているのか?という話になった。僕は今になって答えを変えた。それは表現方法を変えただけだった。「愛を伝えたい」と言う言葉は僕にとって重過ぎる。考えた。そして「うーん、、、、旅して、、、いい人になりたいからかな」とだけ答えた。

彼らは感心し、同意してくれた。「いい人」などという定義もなく曖昧な表現を理解してくれた。そしてまた馬鹿話をしながら一緒に笑い、ビールを飲んだ。

しばらくして、世界を変わった方法で旅している人の話になりユーチューブを見た。リヤカーマン永瀬忠志。リヤカーで世界中を周っている。バックパッカーともチャリダーとも違う。僕はこの人の動画を見たときに、普段絶対に旅に上下はないと思っていた自分の考えを変えるほどにこの人がやっていることはすさまじく大変で、すさまじく人に希望を与えるものだった。

そこから派生して植村直己賞受賞者の経歴をネットで見た。僕にとっては異世界過ぎた。ここまで人生で色々なところを旅行してきたが、こんなことをやっている人、こんなことが出来る人がこの世にいるのかと思えるほど、すさまじかった。自分の視野の狭さに気づいた。「夢と希望を与える、というのはこういうことを言う」という様な事をトミは言った。僕は完全に同意した。

先生の宿から僕は自分の宿帰り、トミと話し続けた。なぜか会話はとまらなかった。平気で6時間も7時間も話し続けた。今度はスペイン語の話になった。二人とも適当になっているスペイン語、通じればいいと言う所まできてしまっているスペイン語、二人とも基礎がなっていないせいか、あるところで成長は止まっているというような話をした。そんな話も笑いながら出来るようになった。僕はテストを受けるために旅をしているわけじゃない、人と話をするためにやってきている。文法なんかよくわからない。

なのになぜか僕らはスペイン語文法の話をした。二人でスペイン語文法の疑問を話し合った。ネイティブや専門化が傍にいるわけじゃないのに話し合ってもどうしようもない。だが、トミは「話聞いて思ったけど、本当にスペイン語頑張ったんだね!」と言ってくれた。

キューバで会ったときはまだ僕は日本で勉強していたにもかかわらず、全くと言っていいほど話せなかったし相手が何を言っているかもわからなかった。8ヵ月半経過して、僕は、現地人の友達のおかげでそれなりにスペイン語ができるようになっていたということを彼の言葉で実感した。うれしかった。僕は常に努力したかどうかは自分でわからない、だからこそ、人に言われると本当にうれしかった。

・・僕はバックパッカーのみならず地球上の99%の人がナスカに来たらやるであろう、ナスカの地上絵のフライトをしなかった。フライトの料金100ドルが高いとか、空港でどんなに頑張って交渉しても90ドルにしか下がらないとか、色々理由はあった。だが、自分の直感で「別にいいや」というのが本当の理由だった。それは怠惰の言い訳でしかないことも知っていた。

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