アルゼンチンホームステイ

アルゼンチンホームステイ

〜別れ〜

どんな場面でも、そして絶対に、別れはやってくる。
僕はついにラウラさんの家を出ることにした。

ここに来たとき、ここを出ることがこんなにも辛いとは思ってもいなかった。今までも色んな人と別れてきたけれど、ここまで悲しくなった事はなかった。

ほとんど無料で家を貸してくれ、ご飯を用意してくれ、ランドリーで洗濯してくれ、パソコンを貸してくれ、街を案内してくれ、美味しいワインを飲ませてくれた。

そして何よりも、ワインを飲み、日本のドラマを見て、語り合い、その日々は本当に楽しかった。目に見えないプライスレスな価値をもらった。

南米を旅していて一つ、重要なことがわかった。

日本の感覚から見れば異常といえるほど優しい人たち、いい人たちがいる。

日本では、少なくとも僕にとっては、ほとんど見知らぬ他人にストレートに優しさを表現してくれた人たちはいなかった。それはある程度仲がよくなってからのことだった。そのよく見えない壁がここにはない。

僕は日本にいたとき、特に外国人には親切にしてきたつもりだった。それは前の旅で自分自身に約束し、実行してきたつもりだった。だが、その自負が恥ずかしくなるほどに僕はこの中南米という地域で、様々な面からサポートされてきた。

これが分かっただけでも僕は大切な時間とお金を使って旅をした甲斐があった。

でも、不思議とここにもっといたいという思いはなかった。僕は旅をしている。僕は中南米に語学留学をしたり、働きに来ているわけではない、ここにとどまるわけには行かない。

この思いは義務ではなかった。別に旅などというものはいつでもやめることができる。でも、僕は色々な所に行きたかった。何かをしたいという思いは段々と旅を続けていくうちになくなった。ただ、色んな所に行って色んなものを見たかった。

ここからブエノスアイレスに行く、そしてブラジルビザを取る。そしてコロンビアまで北上して、ベネズエラ経由でブラジルに入る。そしてそこからエジプトまで一気に飛ぶ。そして大切な人と会う、何もかも順番どおり。ようやくルーティングが固まった。旅の醍醐味である自由がなくなるのは嫌だが、それはそれで面白い。それに、このルーティングが終わった後に、また自由に旅は出来る。



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彼女は大人だった。僕もいい年齢だった。お互い、あまり感傷的な別れをするつもりはなく、さらりと笑顔で別れを終えようとしていた。

僕は最後の日まで普通にご飯を食べて普通に散歩して普通にだらだらして普通にワインを飲んで、最後の日だとは思えないほどに普通の会話をした。

別れの当日、マルデルプラタは冬になっていた。僕は彼女と一緒にバスターミナルまでコレクティーボで向かった。彼女はこれまですべてのコレクティーボの料金を払ってくれていた。この日も同じようにまったく恩着せがましくなくナチュラルにコレクティーボの料金を払ってくれた。

ターミナルでブエノスアイレス行きのバスを待つ。その間も普通だった。何一つ感傷的にはならなかった。それは、僕と彼女にとって、彼女にとってフェイスブックとスカイプという半永久的につながっていられるツールを持っているという事実に裏づけされたものだった。今日、ここで僕が去った所で、何一つ変わらない。極端な話ブエノスアイレスに着いてからすぐに連絡を取れる。

僕は敢えてアディオス(さようなら)とは言わなかった。アスタルエゴ(また後で)とだけ言った。どこかの映画でみたセリフだが、まさか自分が実際にこのセリフを遣うことになるとは思っていなかった。

そして普通にハグをしてベシートをして、さも明日戻ってくるかのように分かれた。彼女はいつものように笑っていた。

いつの間にか僕は心の中で寂しいという気持ちや悲しいという気持ちはなくなっていた。だが、感謝の気持ちだけは溢れていた。

感謝の気持ちを伝えるときに、「ありがとう」以上の言葉はないのだろうか?彼女への感謝の気持ちは「ありがとう」では伝わらない。「ありがとう」以上の言葉が欲しかった。

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