暗黒のリマ
 



〜吹っ切れた瞬間〜

少しずつ物事は復旧してきた。旅に必要なものは大体揃い、パスポートもしばらく旅できるだけの現金も持った。散々迷った挙句、パソコンは日本のオンラインショップで買い、あの人にエジプトまで持ってきてもらうことにした。カメラはコロンビアで買うことにした。

僕は強盗にあってすべての持ち物を失った時から、ここまでやることで、人生で経験したことがないくらいに不安で、絶望的な状況を克服できる強さを身につけた気がしてきていた。

だが、僕にはもう一つ問題を抱えていた。

ウルグアイで取ったブラジルビザはパスポートと共に強盗に強奪された。僕はすでにブラジルからヨーロッパに抜けるチケットを持っている。何としてももう一度ブラジルビザを取らなければならない。

これまでアスンシオン・ブエノスアイレス・モンテビデオと3つのブラジル大使館に行った。そして今回リマで4つ目のブラジル大使館に行くことになる。

ただ、どこの大使館も同じように、ブラジルビザの発行には、パスポート・写真・銀行の残高証明書・出国の航空券・そしてクレジットカードのコピーまたは原本が必要だった。僕はすでに機能しなくなっていたクレジットカードを親に送ってもらっていたのでそれが届くのを待たなければならなかった。もしくは再発行したクレジットカードが実家に届いた段階で、家族からその画像をスキャンしてもらってその画像をメールで送ってもらわなければならなかった。いずれにしても時間はかかる。

その間、準備が整ったにもかかわらず、動けない日々は続いた。僕はもうリマは嫌になっていた。毎日青空が見えない曇天。灰色の空と真冬の寒さは僕の気持ちを沈ませるのに充分だった。

だが、宿で働いている、かとうさんと話していると少しだけ元気になった。彼女の仕事の邪魔になりながらも僕らはペラペラと話し、セントロで食事をした。日本人で、年齢も近い人と直に、そして日本語で話せることがこれほどまで自分の不安や負の感情を消せるとは思ってもいなかった。日本語が恋しく、日本食が食べたくなる。NHKを見ると癒される。僕はどこからどうみても日本人だった。

1週間ほどでクレジットカードは再発行された。家族からスキャンした画像をメールしてもらい、印刷した。これですべての書類はそろった。僕はリマにあるブラジル大使館に行き、どのくらいで発給されるかを訪ねた。ビザの発給は5営業日だった。なぜかリマの大使館は金曜日も休みであり、実質8日間であった。

もう、リマにはいたくなかった。天気が悪く、寒く、セントロでは常に荷物を守らなければいけないほど危険で、その上、特別観光するものもないこの街が嫌で嫌でしょうがなかった。

ボゴタのブラジル大使館で申請して、何かしら問題が起きれば、、、、もういい。喜んで6万円近くしたブラジル行きのチケットを捨てようと決めた。コロンビアからアメリカのチケットは安い。アメリカからヨーロッパへのチケットも安い。ブラジルに行けなくても次のルートはある。これだけ頑張ってもブラジルにいけないということは、ただ単純に僕はブラジルには呼ばれていないというだけのことだと高を括った。

ボゴタでビザを取ろうと決めたとき、僕はすでに北へ向かうバスのチケットを取りに向かっていた。オルメーニョ社とクルースデルスル社はエクアドルまでダイレクトバスを出していた。思えばダイレクトバスに乗らずにローカルバスに乗ってしまったのがこの事件の始まりだった。コロンビアの中継地点であるエクアドルまで90ドル近くしたが、お金の問題ではなかった。もう二度とあんな経験はしたくなかった。もう一度強盗に会ってすべてを失ったとき、僕は日本に帰るだろうと心の中で決めていた。

リマにはバスターミナルというものがない。各会社のオフィスが散らばっていて、いちいちそこに行かなければならない、そしてリマは広く常にタクシーか市内バスを使わなければならない。もちろんタクシーを使う余裕は無い。この広さとターミナルが無いという事実はさらに僕をイライラさせた。

バスで四苦八苦しながらブラジル通りからハビエルプラート行きのバスをつかまえ、オルメーニョ社のオフィスについた時には2時間を経過していた。オフィスで値段を聞き、クルースデルスル社と比較しようにも1キロほど離れている。僕は1キロ歩いてクルースデルスル社のオフィスまで行き、さらに値段を聞いて、また1キロかけて歩いてオルメーニョ社に戻ってチケットを取る。しかもパスポートを忘れた。そういえば強盗に会う前は常にパスポートのコピーを持っていたがあまりにも当たり前のように常に携帯していたため忘れていた。

オフィスの人は「当日でも席は空いているからまた明日来い」というようなことを言った。

そしてオフィスから宿に戻るのにも時間がかかった。リマは夕方常に渋滞に巻き込まれる。僕は宿のある場所へ行くのに、いちいち止まっているバスの運転手に場所を告げていくかどうかをたずね、大体のバスはそこに行かず、バスに乗ったら乗ったで渋滞した挙句に変なところで降ろされるということを繰り返した。その間も常に自分の荷物を盗まれないように神経を使わなければならなかった。

午後3時ごろに出発してタクシーで行けば往復30分もかからない場所なはずなのに、宿についた時には午後7時を回っていた。リマと言う街は僕にとって世界で一番嫌な場所になった。

いろんな面でリマに対してイライラしてきたが、お金も無く、節約したい人にとってこういうことは当たり前だった。南米に入ってからずっと現地人と楽しく過ごしてきて、あまり苦労をしていなかったせいか、こういうことも忘れていた。



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思えば、これまでの旅は楽しかった。4ヶ月ほど前に中米から南米に入って、僕の旅は異常とも言えるほど物事をスムーズに進め、多くのラテンアメリカの人間に助けられてきた。

だが、その分ハングリー精神との距離は離れていたかもしれない。

自分ひとりですべてを進めて自分ひとりで苦労しながら物事に当たるということを、僕は少しだけ忘れていた。保身に逃げていて、どこかダラダラとしてしまっていた部分を、神様は見ていて、バランスを取った気がした。ハングリー精神を思い出せと、苦労せよと神様が言っている。

僕は強盗に会って吹っ切れた。何かが吹っ切れた。

無くてもいいものがあるとき、人は無駄に欲が出て、それは不満につながり、その不満は永遠に消えることがないということを30年近く生きてきて知った。そしていつの間にか忘れていた。いつも忘れては思い出し、忘れては思い出す。

今、もう一度自分のハングリー精神を取り戻したいと思うようになった。同時に、あるべきではないものに囲まれて、旅への不満は出ていなかっただろうかと自分を問い直すと少し恥ずかしくなった。

後はやるべきことをやるだけだった。コロンビアに行く→ブラジルビザを取る→ブラジル行きのチケットを買う→ブラジルに行く→ドイツに行く→エジプトに行く。それだけ。どこかで問題が起こってということはもはや考えない。起こらないと信じていこうと決めた。

10日前、すべてを失い、それでも旅を続けると決心したとき、心の中では「何とかする」と意気込んでいても、実際にどうすればいいのかは分からなかった。頭の中で完全復旧へのフローチャートを描きながらも、その論理は破綻していた。物事が複雑に絡み、何をどうすればいいか混乱する日々は続いていた。

だが、今ようやく、やることが全部見えた。複雑な物事を一つ一つ進めることで、ここまでたどり着けた。後はやるだけ。

ようやくリマを出ることが出来る。もう、リマはいい。

こんな無駄に広くて青空の見えない街には二度と来ないと決め、「ステイハングリー・ステイフーリッシュ」というスティーブジョブズの演説を思い出した。

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